絵画やデザインの勉強をしていると、必ずと言っていいほど、デッサンを学びます。
ただ、私は、正直、デッサン力がそれほどなくても、デザインの仕事は、こなせると思います。
もちろん、デッサンが上手であれば、なお良いですし、デッサンの勉強は、必ず、プラスになります。
良くないな、と思うのは、イヤイヤながらに、デッサンを学ぶことです。
みんなやっているから、とか、試験科目だから、という理由で、受け身の姿勢でやっていると、なかなかデッサン力は、上達しないでしょう。
なにより、それでは、楽しくないと思います。
楽しくなく、イヤイヤながらにやっていても、いいデッサンができるとは思いません。
なぜ、そのような受け身で、否定的な姿勢で、デッサンをやっている人が多いのでしょうか?
それは、「なぜ、デッサンを学ぶ必要があるのか?」、「デッサン力を磨くと、どのようないい事があるのか?」ということが、明確になっていないためだと思います。
その理由がわかり、ストンと自分の胸に落とし込むことができれば、積極的にデッサンを学ぶようになり、それが、デッサン力の向上に、つながっていくと思います。
では、デッサンを学ぶ意味とは何か、ということですが、これは、正直、一つではありません。
また、唯一、絶対の正解、というものもありません。
先ほども書いたように、自分が納得でき、それが、成長に結びつけばいいのです。
そこで、いろいろな観点から、デッサンの必要性を、考えてみる必要があります。
例えば、多くの人が誤解しているのが、デッサンは、見たものを、そのまま表現すればいい、というものです。
これは、写実主義を誤解しているとも言えるのですが、それが極端に進むと、わざわざ手で描くことはなく、写真に撮れば済むんじゃないか、という話になります。
しかし、はっきり言うと、見たままを表現する、ということは、無理です。
人の目を通し、それを描くということは、必ず、そこに、描き手の解釈が入ります。
それが、デッサンの難しさでもあり、おもしろさでもあります。
どういう事かというと、同じ対象を、同じ方向から描いても、ある人と、別な人では、出来上がったものは、当然、違ってきます。
その場合、どちらがいいか、どちらが悪いか、ということは、一概には決められません。
もちろん、最低限のデッサン力があり、技術的には、あるレベルまで達している、という条件のもとで、という話です。
これが、写真であれば、まったく同じ物が撮れるでしょう。
もちろん、カメラの性能の違い、というものはあるでしょうが、普通の人が見たら、その違い、というのは、わからないレベルです。
つまり、デッサンというのは、描いた人の解釈、つまり、目の前の物を、どのように見ているか、ということを表現する手段でもあるのです。
と、いうことは、そこに、必ず、個性、というものが、出てきます。
もちろん、デッサンを学ぶ段階において、あまりにも個性を出し過ぎるのは、問題です。
それよりも、基礎的な描写力を磨くべきでしょう。
ただ、デッサンに対して、あまりにも、受け身で、ただただ、手を動かしているだけ、という状態は、好ましくありません。
そうではなく、一見すると、無味乾燥に見えるデッサンの中にも、しっかりと、描き手の意思や考え、その人なりの解釈が、反映されている、ということです。
このような、デッサンのおもしろさを発見するには、やはり、数多くのデッサン作品を見るといいでしょう。
同じに見えていた現実の景色や物が、実に多彩に表現されていることを、感じることができます。
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